研究のない相場は
空中楼閣のような
ものである。
石山賢吉
石山賢吉は、現在も経済書やマネー誌を出版している
ダイヤモンド社の創業者で、
大正二年の創業時から第一線の経済記者として健筆を揮った
行動派の経営者だ。
この言葉は石山が昭和10年に出版した『金と人間』の一節で、
投資に対する心構えを説いている。
「空中楼閣」は1720年にジョナサン・スウィフトが、
南海バブルが崩壊した直後に読んだ詩で、
のちに実体経済と無関係なマネーゲームによる
株価形成を指すようになった。
石山はこの本で、
理論派相場師の一人として斎藤定吉を登場させる。
斎藤定吉は東大法学部を卒業したインテリ相場師で、
東大を優秀な成績で卒業したものの
生まれつき身体が弱く病気がちで
あったことから定職に就くことができず、
家庭教師などのアルバイトをしながら
相場を張り生活費を稼いでいた。
斎藤定吉が兜町で脚光を浴びたのは、
昭和5年のことで、
井上準之助蔵省の金解禁で
出現した大相場のときに、
事前に仕掛けたすべての株を最高値で売り抜けたときだ。
そのころ斎藤定吉が研究していたのは、
今日のテクニカル分析に相当する羅線学による相場観測で、
人前に出ることを極端に避けたことから周囲は
斎藤定吉のことを「孤高の相場師」と評している。
斎藤定吉の面白いのは相場で稼いだ金の使い方で、
貯えた資金のすべてを大分県の金山に投入して金山経営をはじめ、
戦後は神奈川県の真鶴市で網元の権利を取得して猟師になろうとしている。
いずれの事業も経営の甘さや天災などで失敗に終わるのだが、
定吉が病弱であったがために、山師や漁師といった男臭い事業に
惹かれるものがあったのかもしれない。
斎藤定吉はこれらの事業が失敗に終わると東京に舞い戻り、
80歳まで現役相場師として株式市場と生糸市場で
相場を張り続けたといわれている。
生涯独身で家族を持たず現存する写真が一枚もない斎藤定吉だが、
堅実勤勉な生き様からわたしは国木田独歩の「非凡なる凡人」という
言葉が脳裏をよぎる。
「非凡なる凡人」とは
「正直で平凡に生きることは難しい、
だから平凡に生きるとは本当は非凡なことだ」
という意味だ。
とかく浮き沈みの激しい相場の世界で、
平凡に生きることは想像以上に難しい。