慶性寺は、僧朝賢が寛正4年(1463)に創建したと伝えられ、僧玄旨が法流開山だといいます。住職も気さくな方で非常に親近感が持てます。境内も隅々まで清められ清々しい限りです。参拝の様子は下記をご覧ください。
新編武蔵風土記稿による慶性寺の縁起 (大蔵村)慶性寺 小名下にあり、瀧本山と號す、新義真言宗、都筑郡岡上村東光院の末寺なり、開山の僧及年歴を傳へず、法流開山を玄旨と云、これも寂年等詳ならず、本堂七間に六間南向なり、本尊大日は、木の坐像にして長一尺二寸許。 不動堂。本堂の西にあり、三間四面、東向あり、不動は木像にして、長一尺七寸許。 — 白山社 社地、一段、無年貢地、同邊にあり、慶性寺の持にて、七石五斗の御朱印を賜はれり、わづかなる社にて神體は白幣なり、勧請の年代をしらず。 (新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による慶性寺の縁起 慶性寺(大蔵町) 所在地 町田市大蔵町字下にある。 宗派 新義真言宗。川崎市岡上東光院末寺。 山寺号 滝本山慶性寺。滝本山の山号は、寺背三町余りのところに不動の滝が落ちており、そこに三間四面、東向きの不動堂があって、不動は木像にして一尺七寸が安置されていたところより起こった。 開山 僧朝賢、寛正四年(一四六三)開山と、明治二一年の大蔵村誌にある。また、『風土記稿』には、法流開山玄旨としてあり、寂年は不明。 朱印 七石。この朱印は白山領としてあったが、これも、寺院背後の滝の上の高丘に、古くより白山社があったためであった。なお、この高丘には、昭和三九年発掘調査の結果、四〇個近くの縄文住居址が馬蹄型に存在することが発見された。 本尊 大日如来、木座像、高一尺二寸。○本堂 六間四方。向拝二間に一間、寄棟草屋根。 不動堂 三間半四面。向拝九尺に一間。三方に三尺の廊をめぐらす。寄棟草屋根。 太子堂 正一間半、横三間半、向拝一間に三尺のものがつく。この太子堂はもと大蔵町中村にあったものを、昭和三七、八年ごろここに移築した。 鐘楼 九尺四面、亜鉛葺屋根寄棟御堂造り。戦後まだ梵鐘はない。 庫裡 四間半に八間半草屋根。境内に、鶴川保育園がある。そして、寺院は二五段の石階上にある。(「町田市史」より)