菅原神社は、町田市本町田にある神社です。菅原神社は、大沢玄蕃が地を寄進して寛永7年(1630)井出ノ沢の山上に創建、青木山西向寺を開山した寒江清山和尚が、渡唐の天神像を造立、明治35年に千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀したといいます。 町田天満宮、南大谷天神社とともに町田三天神の一つです。また、当地は、建武2年(1335)にあった中先代の乱の地、井出の沢古戦場の地だといいます
菅原神社の由緒
菅原神社は、大沢玄蕃土地を寄進して寛永7年(1630)井出ノ沢の山上に創建、青木山西向寺(廃寺:現青木山本覺寺の隣地)を開山した寒江清山和尚が、渡唐の天神像を造立、明治35年に千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による菅原神社の由緒
(本町田村)天神社
社地三畝、字向村にあり、勧請の年代をしらず、神體は坐像にして長一尺ばかり、社は四間四方東に向ふ、前に鳥居をたつ、兩柱の間九尺、例祭は七月二十五日、大澤寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による菅原神社の由緒
寛永七年(一六三〇)大沢七郎正純が先祖の守り本尊を大沢玄蕃土地を寄進し、井出ノ沢の山上に創建し、青木山西向寺開山寒江清山和尚が、渡唐の天神像を造立して奉遷座した。寛文五年(一六六五)には天神宮寺と称した。享保八年(一七二三)四月と天明五年(一七八五)四月に再建した。明治三十五年八月に千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀した。現社殿は昭和十一年七月の再建で、町田三天神の一社である。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による菅原神社の由緒
菅原神社(本町田)
寛永七年(一六三〇)に、神奈川県の青木山西向寺の開山である寒江和尚作の渡唐の天神の像とともに大沢玄蕃が境内地を寄進して一宇を建立したのである。その天神像は、先祖の大沢七郎正純の守り本尊である。寛文五年(一六六五)には「天神宮寺」とあり、享保八年(一七二三)四月と天明五年(一七八五)四月に社殿の再建をしたことが社宝の棟札にある。社宝に作者不明の右大臣・左大臣の座像があり本殿の左右におかれている。町田の三天神の一社である。
境内末社に防火の守り神である愛宕社が奉斎してある。
天野佐一郎先生の筆になる「史蹟井出ノ沢」の記念碑は、昭和三〇年(一九五五)六月一二日の建立である。
昔は神事相撲があり、祭礼の時に奉納されたのである。
祭神は、菅原道真公を奉斎してある。例祭日は毎年八月二五日である。
境内地坪数一七四〇坪、境外山林八四〇坪余りあり。町田市内の神社では広大である。
町田市本町田八〇二番地に鎮座している。
◎菅原大神のこと……大宰府の道真公は延喜三年(九〇三)二月二五日、おのれの不幸をなげきつつ病死したのである。その後京都では落雷がしきりにあり、菅公の怨霊による崇だといわれた。北野の雷神ないし天神と、菅公の怨霊と結びつき村上天皇の天暦元年(九四七)に天満天神の号をつけて、神として祀られたのである。また、南北朝時代以来、渡唐天神の伝説とともに学芸の神として崇敬するようになったのである。(「町田市史」より)
境内掲示による菅原神社の由緒
室町期の永享年間大沢左近正次は先祖の大沢七郎正純が元応年間(鎌倉期)に京都北野天神を詣でた折に得た天神像をこの井出の沢の山上に奉安いたしました。時は下ってその子孫大沢玄蕃は江戸期初頭の寛永七年(一六三〇年)新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安いたし、この地を寄進して本町田の鎮守としたのが当社の縁起であります。
享保七年(一七二二年)御本殿が再建され天明五年(一七八五年)社殿が造られました。明治三十五年(一九〇二年)千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀し、その後も氏子の総力をあげて社殿の修復、境内の整備を重ね、平成十二年には新神楽殿が竣功いたしました。
主な御祭神は菅原道真公(平安前期の学者、政治家、歌人)であります。同じく菅公をお祀りする町田天満宮、南大谷天神社とともに町田三天神の一社として多くの人々からご神徳を慕われ崇敬されております。(境内掲示より)