勝ったときより、負けたときに、人間の価値が決まる
小菅剣之助(1865-1944年)は昔から米相場が盛んだった四日市出身の相場師で、
プロの将棋指しから相場師に転向して巨富を築いた立志伝中の人物だ。
桑名の米相場市場と異なり、
市場で働く女中や子守などの女性陣も積極的に相場に参加した伝統を持つ市場で、
小菅が相場師になったのは、
米相場で失敗した父の損失を相場で取り戻すことが当初の目的だった。
天賦の才能でみるみる頭角を現した剣之助は堂島市場に進出して父の借金返済を果たす。
当初から米相場は50歳でやめると決めていた剣之助は、
このとき得た資金のすべてを株や不動さんに再投資して資産倍増に成功する。
米相場と株式相場の二つの市場を制覇した剣之助は四日市で数々の事業を興した後に、
政界に進出して熱海の別荘で天寿を全うした。
棋士の米長邦雄さんは『 米長 流株に勝つ極意』(サンマーク出版)のなかで、
小菅剣之助の成功を「相場は実業の世界でなく虚業の世界です。実体のない夢の売買をなりわいとするからで。
虚をいくら追い求めても虚でしかありません。
そのことをよく心得ていた彼は虚で儲けた金を着実に実に変えていったのでは」と分析する。
相場の世界では囲碁将棋を嗜む人が多く、
「横堀将軍」と称された滋賀県・甲賀の石井定七(1879-1945年)は、
「将棋は攻め六分守り四分、囲碁は攻め七分守り三分。相場で勝ちたければ囲碁将棋をやるとよい」と言っている。
小菅も石井も潔い相場師で、
自分の敗因の多くは視野の狭さにあると語り、
角度を変えて相場をみると視界が開けて売買がうまくいくと語っている。
将棋の世界で使われる「傍目八目」がこの考え方だ。
ちなみに短期間に金持ちになった人を「成り金」というが、
これも将棋用語で、
成り金の元祖・鈴木久五郎は株式で国家歳入に匹敵する富を築きながら続く株価大暴落で破綻。
石井定七も日本一の借金王として相場師の生命を終えた。