幽霊と相場は寂しいところに出る
日本のお化け屋敷の元祖は、
江戸時代に瓢仙という医師が自宅に百鬼夜行のお化け物細工を飾った「大森の化け物茶屋」が始まりと言われている。
以来、夏の風物詩の一つとなった怪談やお化け屋敷だが、
近ごろは子供たちに古今東西の怖い話を集めた『怪談レストラン』(童心社)が人気で、
なんと全国の小学校1万3000校で行われている「朝の読書」で、
この作品が絶大な支持を得ているという。
「怖い話は相場だけで十分だ」という読者もたくさんいると思うが、
この格言は相場の世界で「怪物相場師」とよばれた近藤信男(1903-1973年)
が残した名言の一つである。
近藤信男は1903年に名古屋市で生まれた相場師で、
父の繁八も明治正気期の先物市場で活躍し大物相場師だ。
相場師の血は遺伝する。
慶応大学に進学した近藤は在学中から相場師の修行と称して兜町に入り浸り、
相場師と博打三味を日々を過ごす。
1929年ンに父の急逝で家業の近藤紡績を引き継いだ信男は、
1932年のミシシッピ川氾濫で大荒れになったニューヨークの綿花市場で強気一点張りの大勝負に出て、
傾いて事業を立て直すほどの巨富を稼ぐ。
以来、近藤は先物市場と株式市場の両市場で数々の大相場を手がけ、
株式市場では野村・大和・山一・日興の四大証券を相手に無謀ともいえる勝負を挑んでいる。
この名言は当時のもので、相場の転換期や仕手株の正体など、
様々な解釈ができる文言だ。
近藤は相場状況によって自らを演出する名人で、
手掛けたすべての仕手戦で、
三種の才能(鬼才・奇才・機才)を巧みに使い分けている。
近藤は破天荒な生き様は、
あるときは自分の存在を市場から隠し、
あるときはアピールするための自分のプロデュースだったのではないだろうか。
69歳で没する直前の昭和47年中山製鉄株の仕手で世間にその健在ぶりを示して相場師として燃え尽きた。
「死ぬときは相場で死ぬ」が口癖だった近藤らしい壮絶な最期であった。