勝楽寺は、三橋新右衛門(勝楽寺殿清誉浄正居、天正3年1575年没)が開基となり、源蓮社光誉が天正元年(1573)に開山したといいます。町田のど真ん中に位置しい一時的にその喧騒を忘れさせてくれる癒しスポットです。大きな供養塔も町田のシンボルです。
新編武蔵風土記稿による勝楽寺の縁起 (原町田村)勝楽寺 除地、畑三段二歩、字下にあり、浄土宗にて、瀧山極楽寺の末寺なり、三寶山と號す、本堂は七間半に五間申の方に向へり、本尊三尊の彌陀を安置す、木の立像にて長二尺五寸ばかり、脇士の長各一尺五寸ほど、惠心僧都の作なり、開山を光譽と云、天正元年に建立す。 鐘楼。本堂に向て右にあり、九尺四方、鐘は延享年間に鋳造せしものなり。 門。前にあり、少し石階あり。 惣門。ここにも少しの石階在。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による勝楽寺の縁起 勝楽寺(原町田) 所在地 町田市原町田三丁目、境内五七〇坪。 宗派 浄土宗。南多摩郡滝山宝樹山極楽寺末。 山寺号 三宝山勝楽寺、古文書に正楽寺とも見ゆ。 開山 源蓮社光誉、天正元年(一五七三)開山と伝う。 開基 三橋新右衛門(天正三年一〇月死)勝楽寺殿清誉浄正居士。碑銘に原町田村起立、俗名三橋新右衛門。施主同名、八左衛門と刻。定紋、大石氏源氏の裏菊。 本尊 弥陀三尊。弥陀木立像(伝恵心僧都作というが寄木造りなので年代が下っている)。六七・六センチメートル。室町末期のもの。大正一二年九月一日関東大震災の際破損し、腹中より享禄五年(一五三二)の古文書出る。 本堂 木造入母屋造。銅葺屋根。中央三間向拝付両袖二間ずつ、間口七間、奥行五間。大正一二年震災により前本堂倒壊のため、大正一五年三一代良賢代に寺社大工茂木良造の手で再建したが、五〇数か寺社建築した彼の処女建築であった。 庫裡 木造二階建瓦葺六一坪。昭和三六年九月建。 鐘楼 二間四方、木造瓦葺。梵鐘。浄土真宗、高田派下谷唯念寺所在のものを譲り受けた。銈に南無阿弥陀仏と刻す。 惣門 冠木、三間半に奥行九尺。 不動堂 良弁不動という。もと相州大山阿夫利神社境内にあったが、明治四年廃仏棄釈にあい、原町田信徒の手でこの地に移され今日に至った。門外にあったものを、これまた、昭和二五年現在地に移建し、落慶式は翌年五月二八日挙行。建坪一八坪二合。ちかくに手洗いがあって〇・五五坪である。また、寺院の庭の中央に、開基子孫三橋忠正・国民兄弟建立の、高六尺余りの供養塔(宝筐印塔)のあることも記すべきだろう。またこの寺域には、明治時代の自由民権家渋谷仙次郎、町田市第一小学校の前身である日新学校初代校長と伝える松田道一郎、また幕末の侠骨弥兵衛親分土方弥兵衛らの墓もある。(「町田市史」より)
勝楽寺所蔵の文化財 勝楽寺阿弥陀三尊像三軀(町田市指定有形文化財) 勝楽寺阿弥陀三尊像三軀 勝楽寺の本尊像。来迎印を結ぶ中尊に、腰をかがめ蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩が随侍する、いわゆる来迎の三尊像である。各像共寄木造、玉眼を嵌入。 なお、この三尊像は「町田市史」等によれば、大正12年の関東大震災の折りに破損し、その際に像内に墨書銘があることが判明し、享禄5年(1532)大石大学助高仲が大願主となり、仏師円慶によって造立されたことが知られる。銘文中の下野法眼は青梅市報恩寺地蔵菩薩像、鎌倉円応寺奪衣婆像等の作者として知られ、関東地方を中心に活躍した仏師弘円で、その弟子円慶については、この像の他に作品は伝えらていないが、天文2年(1533)に弘円の下で青梅市塩船観音寺の仁王像を修理したことで知られている。(町田市教育委員会掲示より)