人はそれぞれの道に従う。
道は万物のあり方の要である。
善人はこれを保っており、
そればかりか、不善の人もこれを保っている。
人間はそれぞれに、それぞれの道にしたがってるのであって、
善不善というのはというのは、人間の当てはまる区別に過ぎない。
『飾り立ての言葉を使って、口先で世渡りすると、
自らの魂を売り買いすることになってしまう。
口先でごまかさず、自尊心を保って行動すれば、
自らの魂を守り、人として成長する』という。
ある人がいま不善だからといって、
どうしてこれを捨てることがあろうか。
天子が即位して三人の大臣が定められ、
天下の秩序が形成されたお祝いに、
大きな璧を先に立て、
四頭立ての馬車を仕立ててお迎えに上がる、
という最高の祝福の儀礼がある。
しかし、こんな最上の礼でさえも、
座ったままで、
道の教えを献上して伝授することにはかなわない。
それほどにこの教えには価値がある。
昔からこの教えが貴ばれた理由は何か。
自らの道に逆らうなら、
『求めれば手にはいり、罪を犯すことから免れる』
というではないか。
それゆえ、天下の誰もが貴ぶのである。