ものごとを知るには、
言葉に頼るな。
私たちは、知る、ということを知りえない。
それは、右手で右手をつかみ得ないのと同じことだ。
私たちは、ものごとを、知らない間に、
暗黙のうちに、知ってしまっているからだ。
ところが私たちは、自分がしったものごとを、
言葉にすることができる。
私たちは、言葉にすることで、
暗黙のうちに、知ってしまったことを、
明らかに知ることができる。
それは、右手の彫刻を作れば、右手で摑み得るのと同じことだ。
ものごとを知るためには、
言葉に頼るのをやめねばならない。
言葉に頼って考えるときには、
知るという暗黙の働きが、止まってしまうからだ。
ものごとを知るためには、
口を閉じて、言葉の門に閉じよう。
己の理知の光を和らげ、
塵芥の類と同化する。
言葉の鋭さを挫き、
もつれあう生の世界を理解しよう。
これが神秘的な同化、すなわち「玄同」である。
このような知に至った者に対して、
言葉に頼って世界を認識する者は、対処のしようがない。
親しむこともできず、害することもまたできない。
貴いとすることもできず、卑しいとすることもでできない。
そのゆえに、玄道の境地に至った者を天下は尊いことになる。