真言宗智山派施弥山福生寺

町田街道沿いに位置する非常に歴史あるお寺です。

境内も隅々まで整備され非常に気持ちが良いです。

福生寺は、天野孫兵衛清彦が開基、玄良法師が開山となり天福元年(1233)に創建、江戸期には寺領12石2斗の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による福生寺の縁起

(小山村)福生寺 小名片所にあり、新義真言宗、同郡寺方村寶生寺末、施彌山慈眼院と號す、開山慶惠、天和三年四月示寂す、本尊観音木の坐像、長六尺許、本堂七間半に八間半、南向なり、御朱印寺領十二石二斗、何の比賜ひしと云ことを詳にせず。(新編武蔵風土記稿より)

「町田市史」による福生寺の縁起 福生寺

(小山町) 所在地 町田市小山町字片所。付近に畠山重忠陣所跡と伝えるところがある。 宗派 新義真言宗。多摩郡(旧)寺方村宝生寺末であったが、現在は京都新義真言本山智積院末。 山寺号 施弥山慈眼院福生寺。昭和一〇年一〇月、相模原市淵野辺鈴木孫兵衛方より左の古文書が出た。 相州東郡柚木領小山田郷小山村[虫聲]蝉山福生寺言伝者、八十四代四条天皇御世天福元年七月十五日弥兵衛[虫聲]蝉声股々耳、其時山伏坊姿者、清彦願出、百姓聚上下、棄差別御先祖御寺祈願説御本尊観音祈願坊、孫兵衛鎌倉願出、執権北条泰時公社寺奉行言命、年号一字賜[虫聲]蝉山福生寺云 文暦一五年三月十七日   寺社奉行 多治見海基 開坊 玄良法師 開基 天野孫兵衛清彦 かくて施弥山([虫聲]蝉山福生寺の山寺号出づと寺院ではいっている。 開山 これも右文書によって玄良法師としている。天福元年(一二三三)開山。 開基 天野孫兵衛清彦。 本堂 間口八間半、奥行七間 。正面に二間半、間口九尺の玄関をつく。 本尊 不動木立像、長三尺。 庫裡 面積二八坪。木造平家瓦葺、昭和二八年新築。 鐘楼 九尺四方。昭和二六年 一二月鋳の梵鐘あり。 観音堂 間口三間半、奥行三間半。三方に三尺の濡縁あり。 本尊 観音。東京都多摩丘陵調査の際、調査員丸尾彰三部氏が「本尊が、形容、彫刻ともに整っている。同じく一二世紀のものである」と報告した仏像で、長四尺五寸、ほかに台あり。昭和三六年一月三一日東京都指定文化財となった。思うに、天野家文書にある「御本尊観音」もこの観音像であるだろうから、『風土記稿』に、福生寺の本尊を観音としてあるのも、やはりこの意味なのだろう。 朱印 一二石二斗。(「町田市史」より)

福生寺木造菩薩立像

現在、観音堂の本尊に随持して安置されている。本像と同様、檜材の丸彫像で、やはり素地を呈している。天衣および台座蓮肉部まで本体と共木で、左脇侍が各肘より先、右脇侍は左手首が後補されている。 五〇センチに満たない小像らしく童顔風とするところが個性的で、眼鼻立ちや技法などは極めて本尊像に近いが、宝冠は無文で衣文もほとんど省略されているところなどが異なる。また、大きさからも本尊と元来一具であったとは認め難い。しかし、この二像は本尊像の作風を踏襲していることは充分に認められている。制作年代も本尊よりはやや遅れて十一世紀末から十二世紀後半とするのが妥当であろう。(町田市教育委員会掲示より)

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