都庁舎をはじめ林立する高層ビル群、デパートが立ち並ぶ新宿通りや、飲食店がひしめく歌舞伎町といった繁華街を擁する巨大な街、新宿。しかし、かつての新宿は、内藤新宿とか追分新宿とか呼ばれていた宿場町で、その名は「内藤家屋敷地前にできた新しい宿」を意味していました。 内藤氏は藤原秀郷の末孫で、忠政の時に家康に仕えて駿府(今の静岡)に住みました。二代目清成は家康の関東移封に先立ち、江戸に居城を構えるために伊賀組百人鉄砲隊を率いて、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目を中心として陣屋を敷き、警備にあたったのです。家康が江戸入城の後、内藤氏は布陣していた新宿の地をそのまま拝領し、これが現在の新宿御苑となっています。 内藤家が拝領した頃の新宿は、街道筋とはいえ宿場もなく、静かな一帯でした。その当時日本橋を起点とした甲州街道で一番初めの宿場町は高井戸にあり、その距離は約4里2町(約16km)であったといわれています。最初の宿場町まで、あまりに遠く不便なため、元禄11年(1698)に浅草安倍川町の名主であった喜兵衛(後の高松喜六)が同志4人(市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛)とともに、5600両の巨額の金を上納することを条件に、その中間に新しい宿場町の開設を願い出ました。その場所が内藤家の屋敷前であったことから、新しい宿場町の意を込めて「内藤新宿」と呼ばれるようになったのです。内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになります。
当時の花園神社は既に現在の地に移転しており、宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。 やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、明治18年(1885)に日本鉄道品川線(赤羽~品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして大正9年(1920)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。 戦争を経て昭和22年(1947)に四谷区、牛込区、淀橋区の三区が統合され、ここに初めて「新宿区」が誕生したのです。 戦後、甲州街道と青梅街道が交差する開かれた街「新宿」は、雑多なエネルギーに満ちた新しい文化の発信地になりました。唐十郎のテント芝居が行われるなど花園神社は、そうした文化を育む役割も担ってきたのです。芸能の起源が神事であるように、花園神社と新宿の文化もまた、密接に結びついているのです。