【浄土宗明了山正受院願光寺】

新宿3丁目駅からほど近い場所にある浄土宗のお寺です。咳に霊験があるということで大人気となり参拝が禁止されたことがある程とのことです。正受院は、信蓮社教誉正受乗蓮が当地に文禄3年(1594)創建しました。当寺の奪衣婆像は、多くの崇敬を集め、一時期参詣を禁止されたほどだといいます。

正受院の奪衣婆像 木造で像高70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。(新宿区教育委員会掲示より)

梵鐘 宝永8年(1711)、江戸神田の鋳物師河合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘。 総高135cm、口径72.8cm。竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式、乳(突起)は四区に合計108個を配し、撞座は2個設けられている。 池の間には四区全体に銘文が刻まれている。それによるとこの鐘は、正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを、万人講の助力をえて第八世住職の仰誉が完成させたものであることがわかる。 なおこの鐘は、太平洋戦争に際し、昭和17年に金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、昭和37年12月に正受院に返還されたという数奇な来歴をもっており、「平和の鐘」と呼ばれる。 江戸時代の梵鐘は、このような金属供出により現存数が少なく、価値が高い。(新宿区教育委員会掲示より)

「四谷區史」による正受院の縁起 太宗寺と同じく亦増上寺末の浄土宗であつて、内藤新宿に所在し、明了山願光寺正受院と號す、古跡拝領地九百二十八坪を有したが、受領の年代は明かでない。文禄三年の起立と傳へ、開山信蓮社教譽正受乗蓮は在住十四年で、慶長八年三月八日入寂したが、開山の来由を詳にしない。中興開山は單蓮社信譽直入殘貞で、貞享三年九月九日を以て入寂した。其他の事蹟不明なること開山と同様である。本堂は文化六年正月焼失し、寶永八年四月鑄造の大鐘もその折本堂地所に据置いたことが書上に見える。 この寺には有名な奪衣婆の巨像があつて、嘉永二年の頃から世人の願を掛ることが行はれ、日毎の参詣絶えず、爲に奇怪の妄説を云觸す者も生じて、遂に官府が所置したことがあつた。事はきゝのまにまに藤岡屋日記など諸書に見える。(「四谷區史」より)

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