小野神社は、町田市小野路町にある神社です。非常に御神気ある歴史ある神社でした。交通の要所に位置している神社の為と現地に行ってみて実感しました。また、小野神社は小野篁の七代孫小野孝泰が武蔵国司として赴任した天禄年間(972)頃、小野路の地に小野篁の靈を祀ったことに由来するといいます。応永10年(1403)には、小野路村の僧正珍が宮鐘を奉納、この鐘は両上杉の合戦の際に持ち去られ、逗子市沼間海宝院に現存しているといいます。
新編武蔵風土記稿による小野神社の由緒
(小野路村)小野社
除地、一段八畝、小名宿にあり、村の鎮守なり、勧請の年代を傳へず、按するに相州三浦郡沼間村海寶院にかくる、應永十年の古鐘は當社の鐘なり、神體は白幣にて本地は文殊なり、坐像にして長一尺ばかり、小社の内に祀る、前に石階數十級あり、その下に鳥居をたつ、清浄院持。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による小野神社の由緒
創建の年代は不詳であるが、古鐘に『武蔵国小山田保小野路県小野大明神鐘銘竝序応永十年(一四〇三)癸未冬当県・・・大貢十郎四郎』とある。寛文六年(一六六六)の検地の時、文殊料として田一反八歩があったが、明治の神仏分離の時文殊仏とともに千手院に移した。現社殿は昭和三年四月三日の再建である。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による小野神社の由緒
小野神社(小野路)
創立の年代は明らかではないが、現在神奈川県逗子市海宝院の寺宝である古鐘の銘に「武蔵国小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘竝序」とあり、年号は「応永十年癸未冬当縣……大貢十郎四郎」とあり、古い社である。
寛文六年の検地の時、文珠領として田一反八歩があったが、明治の神仏分離の際右文珠仏とともに千手院に移した。明治二一年(一八八八)の「村誌」によると、祭神は「天下春命或ハ小野篁ノ霊」(史料集二の五四頁)とあり、天下春命は秩父氏の祖神であり秩父神社の祭神でもある。明治年間合合祀のとき、各谷戸に鎮座する一三の社を当神社に合併奉遷したのである。末社に天満宮八坂神社がある。現在の社殿は、昭和三年(一九二八)四月三日の再建である。
祭神は小野篁を奉斎している。
例祭日は毎年九月一三日である。
境内坪数は二七〇坪余り。町田市小野路町八八五番地に鎮座している。(「町田市史」より)
境内掲示による小野神社の由緒
小野路は鎌倉みちの宿益として鎌倉と武蔵の国府の於かれた府中に通じる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(九七二)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の靈を祀ったことに由来する。
小野篁は、平安時代前期の人で和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたる。篁の孫小野道風は、平安時代を代表する書家で三蹟として有名である。
なお、小山田氏の小野路城があった城山には、小野井戸と伝えられる遺址もあり、小野氏との関連が深い地である。
応永十年(一四〇三)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。
戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に多摩市の塩沢貞氏によって復元寄進され、拝殿の右側面に設置されている。
神輿は小野神社神輿保存会によって修復事業が行なわれ、昭和六十年九月に奉納された。(境内掲示より)