三位の伝
本間宗久は、相場道の極意を「三位の伝」あるいは「三味伝」と名付けている。
三位とはどういう意味だろうか。
これは三位一体からきた言葉である。
つまり、三つの別々のものが心を合わせて一つになると、または、
別々の三つのものが本質において一致することを言う。
これは神の修行を行い、禅の精神を相場に応用して、相場道を極めた本間宗久ならでは
の言葉だ。
禅問答には、常任には理解できない難解なものが多い。
無門彗開(むもんえかい)によって編さんにされた『無門彗開』によって編さんされた
『無門関』は禅問答の代表的なテキストと知られている。
禅寺などで、修行僧に公安として出されるものに、こういう禅問答を出して、
悟りを開く手がかりにしているのだ。
『無門関』には四八則の禅問答が収められているが、その一つに「非風非幡(ひふひばん)がある。
ある日、風が吹いて、寺の幡がそよいでいた。
これを見た一人のの僧は「幡が動くのだ」と言い、
もう一人は僧は「風が動くのだ」と言って議論していいた。
どちらも自説を曲げず、決着がつかないので、六祖禅師(彗能禅師)に決裁を仰いだ。
すると、六祖禅師はこう答えた。
「それは風が動くのでも、幡が動くものでもない。おまえたちの心が動くのだ」
二人の僧は深く感じ入った。
禅修行中の本間宗久は、この話を聞き、やがてこの考え方を米相場に応用し、
「三位の伝」を思いつく。
禅では、幡と風と、それを見る人の心とが三位一体をなったころに、
風が揺らぐ幡の本質がある。
米相場には、揺れ動く相場という幡があり、相場を動かす材料という風があり、
相場や材料を見ている心を動かされる人間心理(心)があり、
これらが三位一体となって相場を形づくっている。
したがって、相場を見るためには、相場だけでも、材料だけでも、
投資家心理だけを見ているだけでもだめで、
それらを三つ一体のものとして見、かつ感じ取らなければならない。
禅の言葉で言えば、自分自身が相場で材料と一体になり、
相場そのもの、材料そのものとなって、相場の心、材料の心を見、
かつその声を聞き、その心、その声に従う、ということなのだろう。
そこにこそ、禅で言う「悟りの世界」がある。
これがまさに本間宗久の言う「三位の伝」であり、「相場三昧伝」でもあり、
これこそが相場道の奥義、というわけだ。